西門刑務所に投獄されても朝鮮人の誇りを守った教師 上甲米太郎

2016.08.21

上甲米太郎(じょうこう よねたろう)

1902年(明治35年)4月16日、愛媛県西宇和郡に上甲家の長男として生まれる。
1912年、父景吉が農業経営に失敗して両親とも朝鮮に渡ったため、母方の実家に預けられる。
1917年、15歳の時に大洲教会にてキリスト教に入信に洗礼を受ける。
1920年、大洲中学校卒業と同時に両親のいる朝鮮に渡り、京城高等普通学校付設臨時教員養成
所に入学。翌1921年同養成所卒業と同時に志願兵として陸軍に入隊。
1922年、陸軍を除隊し慶尚南道咸安(ハマン)公立普通学校教師として赴任。
1924年、予備役志願兵として龍山陸軍第20師団に入営。

同年陸軍歩兵少尉に任官、正八位に叙せられるが、同年9月に除隊し慶尚南道陜川(ハプチョン)郡冶炉(ヤロ)公立普通学校に校長として赴任。
1927年、慶尚南道泗川(サチョン)郡昆(コンミョン)公立普通学校に校長として赴任。
1930年12月5日、昆明普通学校で授業中に、治安維持法違反で逮捕され京城の西大門刑務所
に投獄され、裁判判決までの2年間獄中生活をおくる。
裁判の結果懲役2年、執行猶予5年の判決がくだり公職、位階勲等を剥奪される。

これから話す上甲米太郎のことは、彼が日常の出来事やその時々の心の有りようを克明に記した日記を、主には学習院大学東洋文化研究所が解読、分析した報告をもとに話を組み立てている。
上甲米太郎の経歴については出生から咸安公立普通学校時代までは、重要な意味を持たないため省略する。
上甲米太郎は、咸安公立普通学校に教師として赴任した時に朝鮮人農民の家に下宿し、地元の朝鮮人と同じものを食べ、同じ布団にくるまって暮らす中で、はじめて朝鮮農民の暮らしの実態を目の当たりにして、日本人のくらしとのあまりにも大きな違いに衝撃を受けている。
その暮らしの貧困と同時に、言葉を失くすほどの言われなき差別と人格無視を知ったことが、その後の上甲米太郎の教師としての在り方に、重大な影響を与えたのである。
特に冶炉普通学校の校長として赴任した以降は、朝鮮人児童に対する教育の在り方に苦悩している。
上甲米太郎は日本人校長である。
当然総督府の教育方針に従わねばならない立場であるのだが、一方で咸安公立普通学時代にはじめて知った、朝鮮人のおかれている悲惨な被差別の実態を思い出せば、等しく人として育てる教育の在り方との間に埋められない溝に苦しむのである。
この時の上甲には、当然このことを打ち明け相談できる仲間などいるはずもなく一人苦しむのであるが、上甲の苦悩は、遂にすぐれない体調も重なって自殺を考え「骨は咸安と冶炉と日本の三つに分けてくれ」と言う遺書を残すまでにいたっていた。
その結果上甲米太郎はプロレタリア教育運動に傾倒していくことになるが、それはまだ先のことである。
1925年当時は、普通学校ではハングル教育は行われていたがその他の学科は日本式であり、当
然歴史は朝鮮史ではなく日本の歴史を教えていた。
ちなみに年が進むにつれてハングル教育は縮小されていくのであるが、特にハングル抹殺を計画したのは1938年の、朝鮮総督府が発した教育令改正以降のことである。
話しは戻るが、この歴史授業を通して上甲が衝撃を受け、朝鮮人児童の教育の本質を考えるようになっている。
1927年6月のある日の授業で大化の改新を教えていた時のことである。
改新四か条の第一に「皇族、諸豪族の私有地、私有民を総て廃止」すると言うところで、生徒から「先生、きょうそれは出来ないことなのでしょうか」と問われる。
この時上甲は咸安普通学校の時代に、自分はどのような気持ちで子どもたちにこれを教えていたのであろうかと猛省する。
そして行きついた答えが、差別に苦しみ追い詰められた人たちのほんとうの要求は、この生徒の言うようなことなのだと気づき、「今までのような上調子の歴史教授や修身教授が行われているところに、人間の生命ある教育がどうして行われていけよう」、との思いにいたるのである。
上甲米太郎の人として、また教育者としての本当の力は、このように目の前に示された問題が、たとえ提示した者が子供であろうと物事の本質を含んでいる場合は、全身全霊をかけて悩み乗り越えようとするところにあると私は思う。
つまり、上甲米太郎にとっては朝鮮が、朝鮮人がすべてを教えてくれる先生であったのではなかったかと思えるのである。
これらの経験と学びの上に立って、上甲米太郎はそれ以降の朝鮮人児童の教育に取り組むのであるが、その懊悩の帰結として、1930年には3,1独立運動の本当の顛末は子供たちに教えておかねばならないとの思いで、ハングルで劇のシナリオを書いている。
上甲米太郎は、朝鮮人児童を教育するならばハングルは当然であるが、朝鮮の歴史を教えなければならないと考えたようである。
当時そのことの重要性に気づいていた教育者は少なからずいたように思われる。
放課後や休日に、生徒を自宅にあつめハングル教育をしていた教師を知っている。
休日に子供たちと地域のさまざまなところを遠足しながら、朝鮮の歴史を教えた教師のいたことも、私は知っている。
しかしそれを教育の場で実践した人を、上甲米太郎以外に私は知らない。
この劇は上甲米太郎が逮捕されたためについには演じられることはなかったが、3,1独立運動に対しては厳しい弾圧を繰り返して鎮圧し、日本・朝鮮総督府は3,1独立運動そのものを隠ぺいしようとしていた。
しかし3,1独立運動の事実を日本人の、それも校長と言う立場にあるものが、朝鮮人子弟にことの事実を教えると言うことなど、あってはならないことは自明のことであるが、あえてそれをハングル劇にして子供たちに教えようした上甲米太郎の教育の在り方に、私は教師としての誇りも、日本人としての矜持も、人としての良心も、すべてが表わされているように思う。
西大門刑務所から釈放された上甲米太郎のその後はもちろん公職には就けず、知人をたより釜山近郊の東莱で河川工事飯場の帳簿付けや保険の外交員などで生計をたて、憲兵警察に追われるように帰国してからも、北海道太平洋炭鉱や九州の三井三池炭鉱で朝鮮人労務者の通訳をしたり、紙芝居屋で家族を養ったり、絶えず差別に苦しむ朝鮮人に寄り添いその生涯を閉じている。
上甲米太郎は公立普通学校の校長として朝鮮人児童を前にして、教育者としての信念を貫こうとしたのであるが、組織も持たず自らを守る財力も無い身であったため、結局はその信念を遂げることはできなかった平凡な人であったと言えるのであるが、また良心に従って人生を生き切った稀有の教育者ではなかったかとも思う。
果たして自分はそのようにできたであろうか。
果たしてあなたはそのようにできるであろうか。
人の生き方とは、なにをもって価値ありとすれば良いのであろうか。
上甲米太郎は後世を生きる我々に、多くの示唆を残して逝った人であろうと思う。