植民地朝鮮に生きた日本の良心

2016.09.02

日本内地の町と暮らしを写し取った「日本人町」

日々の暮らしが自己完結できる「日本人町」は、朝鮮の人、物、文化と完全に隔離する環境であった。
瓦屋根の日本家屋の建ちならぶ通りには、特別の理由がない限り元々あった朝鮮での呼び名は否定され、本町や常磐町、大和町など日本の地名がつけられ、町には米屋、魚屋、八百屋は言うに及ばず、銭湯、写真館、桶屋、和菓子屋から代書屋にいたるまで、ありとあらゆる業種が開業していた。
年末には餅を搗き、正月には門松や日の丸を掲げ、晴れ着で着飾った人たちが年賀の挨拶を交わす。
桜の季節には重箱に詰めた弁当や鳴り物、芸者が妍を競う花見で浮かれ、刈り入れの済んだ季節には櫓を組んで盆踊りを楽しむ。
植民地朝鮮の「日本人町」は、どこを切り取っても日本内地と何一つ変わることのない暮らしが営める仕掛になっていたため、朝鮮人とはまったく交わらずとも何不自由なく暮らせたのである。
つまり被支配国朝鮮のコンテクストはすべて否定の対象であった。
しかしこの傾向は日本の植民地だけに見られたことではなく、世界中の植民地に共通していたことでもある。
そもそもアメリカのボストンやニューヨークなど古い地名のほとんどは宗主国イギリスに由来する地名であるし、南部アメリカのルイジアナやバーボンなどはフランス植民地時代につけられたフランス語の地名である。
南米大陸諸国にはスペイン様式の建築物が建てられスペイン語やポルトガル語の地名が付されている。
中東諸国でも東南アジアでも、およそ世界中の植民地には建築は言うに及ばず言語も食文化もすべてが宗主国の暮らしの様式を完全に写し取っているのである。

「暗黒の植民地時代」に生きた良心

差別と搾取で成り立った植民地時代は、朝鮮、日本両国民にとっても「暗黒の時代」であったと言える。
ただ、周辺と隔離された「日本人町」で暮らした多くの善良な日本人たちは、周辺に暮らす朝鮮人と接する機会もなかったし、ましてその暮らしを垣間見る機会さえ無かったため、差別や搾取といったことを意識する必要もなかった。
しかし「日本人町」を一歩離れた地域での現実は、日本人の繁栄とは裏腹に、支配された朝鮮人は苦悩のマグマのなかで喘いでいたことは事実と言える。
つまり植民地とは、差別と搾取のうえにしか成り立たない他国統治の政策と言えるであろう。
そのような時代の中で、大河の一滴のような、人としての良心に忠実に生きた日本人もいた。
民芸運動家の柳宗悦、東京帝都大学教授の吉野作造、英文学者の斉藤勇(たけし)、などは日本政府の交戦弾圧を厳しく批判しているし東京大学総長の矢内原忠雄もそうであった。
ただこれらの人士は日本国内に暮らし、活動の拠点は朝鮮ではなかった。
朝鮮に身を置きながら、弱い立場である朝鮮人の側に立ち、時には擁護し時には叱咤し、時には自身が治安維持法で逮捕され西大門刑務所に投獄されながらも、なお弱き人々に寄り添って生涯を送った日本人もいた。
2011年、「道」というタイトルで映画化され、一躍その名を知られるようになった浅川伯教、巧兄弟もそういった日本人である。
日本人町の調査研究の過程で知った、あなたの知らないこれらの日本人を一人ずつ紹介していくが、それらの人たちの生き方を知ることは、きっと自分の生き方を見直す機会になるのではないかと思うからである。